
殺人事件
の
話をしようと思う。
子供の頃に住んでいたところで起こったことである。 桜の木がたくさん植えられていて、住民がよく花見をする場所があった。ある時、夜桜を見物していた数人の間で諍いが起こり、その中の一人に他の人たちが暴行を加えて死亡させたという事件だった。 酒に酔った人たちがしたことで、殺意はなかったのかもしれない。それなら(重)過失致死だろうか。 孤立した小さな地区だったので、警官は一人しかいなくて、捜査のために(たぶん県警から)数名が派遣されてきた。加害者はある程度わかっていたようであるが、逮捕された者はなく、事件は解決しなかった。 まず、捜査に協力的な住民はいなかった。大抵の住民が顔見知りという田舎で、人付き合いの中で波風を立てたくないというムラ社会的な心理が大人たちの間ではたらいたのかもしれない。捜査にあたった警官が、加害者と目される人の身内だったという話もあった。 遺族がどう思っていたか分からないが、人ひとり亡くなったというのに、事はうやむやになってしまった。当時は子供で事件について知りえたことは少なく、家族も被害者や容疑者と親しいわけではなかったので、自分とは関係のない出来事に思えた。
ところで、事件や事故で死者が出た場所には、よく花束などが置かれる。遺族や亡くなった人の友人、知人のほかにも、全く無関係な人が花を手向けたりする。それはその場所の近くに住んでいる人や、通勤などでその場所をよく通る人なのだろう。 亡くなった人への鎮魂や追悼の意味は当然あると思うが、ほかにも何か説明しがたい畏れのような気持ちからそうしているという印象がある。 例えば何度も事故が起こっている交差点や踏切などは、不吉な場所のように感じられる。 家族の知り合いには、特定の場所に近づくと、何ともいえない気分の悪さを感じるという人がいる。そこが具体的にどういう場所なのか、なぜ気分が悪くなるのか、本人には全く理由が分からないという。
知り合いのM医師によれば、過去に戦場であったり、災害や大規模な事故などで大勢が亡くなった場所には悪い土地のカルマがあり、同様のことが繰り返し起こるそうである。初めて訪れた場所で気持ちが悪くなるなどして、あとで調べてみるとそこがそのような場所だと分かることが多いとM医師は仰る。
理屈では説明できないが、普通の人には感知できない次元で何かが起こり、それが作用するのかもしれない。この世界のあらゆる事象は原因と結果で成り立っているとする縁起(えんぎ)という仏教の思想に関係があることのようにも思える。証明はできなくても、何事にも可能性はある。
特殊な感覚があるわけではなく、宗教にも関心のない普通の人でも、因果応報という言葉を使うように、無意識のうちに何か感じるものがあるような気がする。
件の子供の頃の事件が、それより以前に起こった何事かの結果であったかどうかは分からない。けれど、その後に起こることの因になった可能性はある。悪い出来事が因となって生じる果が、良いものであるとは考えにくい。 あの事件が起こった場所も、事件に関わった人々が住んでいたムラ社会全体も、今は自分の中では何だか不吉で穢れたところになってしまった。もしまたそこを訪れる機会があったとしても、あの場所の桜の木の下で花見をする気にはならないだろう。
理不尽に血が流され、命が奪われる・・・そのようなことは過去に数えきれないほど起こっている。何か良からぬ因となってしまったかもしれないそれらの出来事が起こった過去は変えられない。それなら、その果が発現する未来も変えられないだろうか。花を手向けるよりほかに、人は何もできないだろうか。 桜の季節が近づくたびに、そんな思いが強く浮かんでくる。
(画像はこの記事とは無関係です。)
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