
★鹿について 現在に至るまで正確なデータがないので、大ざっぱなことしか記述できないが・・・ 約6000年前に瀬戸内海ができて、宮島が島になった時には既に生息していたと思われるが、鹿も泳ぐことがでるので、島になった後に泳いで渡って来たのかもしれない。 ”第二次世界大戦後に厳島を接収したGHQの兵士がハンティングの対象として撃っていたために激減した。現在島にいるシカは、GHQ撤退後に奈良公園から人為的に6頭移入されたものの子孫が含まれている。”(Wikipediaより) これについては、少なくとも奈良にはそのような記録は残っていない。 宮島の鹿の調査を行なっている一般財団法人 広島県環境保健協会のI氏によれば、宮島の鹿の遺伝子は広島県など中国地方に棲息する野生の鹿に近いとのことで、他所から連れてきたとすれば、近場からだったと考えられる。 数が激減したとはいえ、全滅したわけではないので、自然に任せれば数は回復しただろうと思われる。 宮島は面積が30.39ku(日本では50番目)と、さほど大きな島ではなく、鹿の食べ物となる雑草・樹木の葉などが豊富にあるわけではないので、野生で自立して生きられる鹿の数は限られている。けれど宮島の住民は餌付けによって鹿の数を増やそうとした。観光資源として利用するという目的があったとも言われる。これは自然のバランスを崩す行為だった。その結果、鹿の数が増えすぎて(現在、島の北東部に約500頭いるとされている)様々な問題が起こるようになった。 1970年代の初期、米国のイエローストーン国立公園では野生の熊への餌付けが禁止された。同じく1970年代、日本でも野生の猿への餌付けによる弊害が問題視されるようになった。宮島で本格的に鹿への餌やりが禁止されたのは2008年で、自分が宮島を訪れた2006年11月には、まだ鹿煎餅が販売されていた。
★鳥獣保護区 宮島が県指定の鳥獣保護区になったのは昭和36年(1961年)である。これは鳥獣保護管理法(略称)に基づいていて、この法律は狩猟法が改正されて鳥獣保護法(略称)→鳥獣保護管理法(略称)となったものである。野生生物の保護、管理を目的としているが、改正によって数の管理に重点が置かれるようになった。 とりあえず宮島では原則的に狩猟が禁止されているが、実際は猪の駆除が行なわれている。これは猪が畑を荒らすという理由で島の住民から駆除の要請があるためで、必要な手続きを踏まえて行なっているものと思われる。 前述のI氏によれば、増えすぎた鹿を狩猟によって駆除することも可能であるが、ゴーサインを出す者がいない、鹿を駆除すれば多方面から非難を浴びるからだろう、ということである。 こうして猪は殺され、鹿は餌やり禁止で飢えさせられている。餓死した鹿はいないと言われているが、I氏は飢えによって死んだと判断された鹿がいることを認めている。人は自分の知識や情報、思考の本音の部分などを全て言葉にするわけではないが、I氏は宮島の鹿については自分が一番詳しいと豪語していることから、鹿に関する発言はデタラメではないと思われる。
★猿について ”1962年(昭和37年)頃、観光振興・生態研究のために小豆島にある日本モンキーセンターからニホンザル45頭が移入されている。これに関連して、2011年(平成23年)以降5年間の計画で、日本モンキーセンターの協力により愛知県犬山市へのニホンザルの移送が行われている。”(Wikipediaより) 増えすぎで…広島・宮島でサルの捕獲開始 http://www.news24.jp/articles/2010/01/29/07152558.html 犬山市の日本モンキーセンターへ移された猿たちは、その後、動物実験施設へ送られたという説があるが、これについては確証がない。しかし、猿たちが犬山市に送られた際に同センターに問い合わせをした人がいて、その時の話を聞くことができた。 同センターによれば、猿たちは狭い箱に詰め込まれていて、到着した時点で半数ほどが死亡していたとのことである。問い合わせをした人は猿たちを案じて様子を見に行きたいと思い、同センターへの公共交通の乗り継ぎなどを尋ねたところ、「見ないほうがよいと思うので、来ないでほしい」と言われたそうである。この話を聞く限り、移送された生き残りの猿たちが幸福な余生を送ったとは考えにくい。
★ケガレの忌避 ”島全体が神域(御神体)とされたため、血や死といったケガレの忌避は顕著であった。 島に死人が出ると、即座に対岸の赤崎の地に渡して葬る(房顕覚書)。赤崎は現在のJR宮島口駅のやや西にあり、遺族は喪が明けるまで島に戻ることができなかった。「〜の向こう」と言うと「あの世」を連想するため、「〜の前」と言い換えていた。この風習は第二次世界大戦頃までは続いていた。 島には墓地も墓も築いてはならない。現在でも1基もない。 島の女性に出産が近づくと、対岸に渡って出産後、100日を経て島に戻るしきたりであった。「婦人、児を産まば、即時に、子母とも舟に乗せて、地の方に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり。」(房顕覚書) 厳島神社の外宮を地御前神社(廿日市市地御前)というように、「地の方」とは対岸の本州を指す。 女性は生理の時期には、町衆が設けた小屋に隔離されて過ごした。「『あせ山』とて東町・西町の上の山にあり。各々茅屋数戸を設けたり。「あせ山」は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし。」(房顕覚書)”(Wikipediaより) 実際、現在も宮島には墓地がなく、出産も本土で行なわれている。 この「血や死の穢れ」は人間に限ったことで、人間以外の動物については除外されるのだろうか。宮島での野生動物への扱いを考えると、どうもそのようである。 1555年の毛利元就と陶晴賢による厳島の合戦の後、毛利は血に染まった厳島神社の社殿を洗い清めさせ、厳島内に血が染み込んだ土も削り去って、神域での血の穢れの禁忌を徹底したと言われる。こういった宮島の歴史については個人的に興味があるので、余裕があれば調べてみようと思う。
(画像は宮島において法的に完全に保護されている唯一の野生生物、ミヤジマトンボです。)
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