 わが故郷に帰れる日 汽車は烈風の中を突き行けり。 ひとり車窓に目醒むれば 汽笛は闇に吠え叫び 焔は平野を明るくせり。 まだ上州の山は見えずや。 夜汽車の仄暗き車燈の影に 母なき子供等は眠り泣き ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。 嗚呼また都を逃れ来て 何所の家郷に行かむとするぞ。 過去は寂寥の谷に連なり 未来は絶望の岸に向かへり。 砂礫のごとき人生かな! われ既に勇気おとろへ 暗澹として長なへに生きるに倦みたり。 いかんぞ故郷に独り帰り さびしくまた利根川の岸に立たんや。 汽車は曠野を走り行き 自然の荒寥たる意志の彼岸に 人の憤怒を烈しくせり。
『氷島』より
萩原朔太郎 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%8E%9F%E6%9C%94%E5%A4%AA%E9%83%8E
前橋市出身の萩原朔太郎は、父が医師で地元の名士であったが、医業を継ぐ気持ちはなく、病弱で学業は振るわず、文芸や音楽を楽しみ、当時としては周囲から奇異の目で見られるほどのハイカラなライフスタイルを好んでいた。最初の上京は1910年、慶大予科に通い始めた時で、ここは中途退学する。1913年に北原白秋の雑誌『朱欒』に初めて詩を発表、詩人として出発する。熱烈なファンレターを送った北原白秋や室生犀星のほか、芥川龍之介や三好達治らとの親しい交流があった。 1919年に結婚、1925年に再上京するが、1929年に妻と離縁して家庭が破綻し、娘二人を連れて故郷へ帰る。「帰郷」はこの時の心情を描写した詩である。もともと周囲から白眼視されて居心地の悪かった郷里への、ある意味 負い目を伴った気の進まない帰還だった。
6月20日に紹介した中原中也の「帰郷」からは、中也にとって故郷は優しく出迎えてくれる場所ではなかったのだという印象がじんわりと伝わってくる(主に最後の二行から)。一方、<昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱えて故郷に帰る>という言葉が冒頭に添えられた朔太郎の「帰郷」は、血を流す魂の叫びとでも言えそうな絶唱である。 このような帰郷と、故郷がどうあれ帰りたくとももう帰れないことと、どちらがより悲しいことか、ふと考えてみたりする。 ちなみに前橋市の敷島公園の詩碑には、ブロンズのパネルに朔太郎の「帰郷」の最初の六行が刻まれている。
(画像は詩で”上州の山”と呼ばれている赤城山の写真と自作のイラストとお借りした素材を重ねて加工したものです)
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